ソフトウェアエンジニアとして転機(4)
米国ゼロックス社に駐在
米国に駐在してソフトウェア開発をするようにと、1988年の夏前ぐらいに言われました。それまでゼロックス社固有のハードウェア上で動作していたStarワークステーションのソフトウェアをSunワークステーション上のSunOSへ移植するSalientと呼ばれたプロジェクトでした。正確な人数は覚えていませんが、当時の富士ゼロックスから私と同期や先輩達の20名以上が米国のEl Segundo, CAおよびSunnyvale, CAへ駐在員として送り出されました。米国へ赴任したのが1988年11月で29歳でした。そして、私にとっては生まれて初めて日本を出たときであり、多くの不安を抱えながらの赴任でした。
赴任前の送別会で、今は亡くなられた先輩のS.U.さんが「米国では与えられた仕事をやり遂げたら、次に難しい仕事が割り当てられるけど、仕事ができないと判断された、日本と違って仕事が割り当てられなくなる」といった趣旨のことを言われて、そうかなと思ったのですが、実際の米国ゼロックス社でのソフトウェア開発はそうでした。
2年半弱、El Segundo, CAでSalientプロジェクトに従事して感じたことは次の通りです。
- 歳を取ってもソフトウェア開発は続けられる
- プロジェクトに面白さが失われていくと、優秀な人は転職していく
William Maybury
私が所属したVP Document Editorチームには、William Mayburyという年配のソフトウェアエンジニアがいました(でも、おそらく今の私よりも若かったと思います)。当時の日本では、彼と同じ年齢の人がソフトウェアを開発し続けているというのは全く想像できなかったので、私にとっては衝撃でした。そして、米国に赴任してから31年の月日が流れて、私自身が今でも日々ソフトウェア開発をしているのは、彼の影響が大きかったのかもしれません。
私事ですが、「さらなる学習」に掲載されている「Mesa Language Manual」の著者の1人であるWilliam Mayburyの名前を見ると、彼と一緒に仕事をした2年半の米国El Segundo, CA時代が懐かしく思い出されます。彼は、私よりもかなり年上でしたが、驚いたことにマネジャーではなく、現役のソフトウェアエンジニアとして働き続けていました。本書が生涯ソフトウェアエンジニアを目指して、常に新たな技術を学び続けている人々に読まれれば幸いです。『プログラミング言語Java 第4版』の「訳者まえがき」より
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